「あの、突然すみません。その帽子ってどこのですか?」
夏と呼んでもおかしくないくらいに暑い、日曜日の昼下がり。
渋谷駅を発進した東急線の電車内で、隣に座った女性(30代前半くらい)に声をかけられました。
彼女の真剣な目を見てピンときたんですよ。
逆ナンじゃん!って。
「これ『ニューエラ』っていうメーカーですよ」
僕はニッコリと微笑み、紳士的な態度で答えました。
『よく異性から声かけられるんで慣れてますよオーラ』を出してモテる男を演じてみたんです。
「へ、へぇ。初めて見ました!珍しいですよね」
動揺しながらも、僕の帽子をまじまじと見る彼女。そっちが声をかけてきたのに。変なの。
ちなみにこの帽子は街でもよく見かける一般的な野球帽なので、珍しいなんてことありません。
でも、僕にはわかっていました。
きっと彼女は声をかけるキッカケとして、とっさに帽子を話題にしたのでしょう。
そういう事情を理解したうえで会話を続けました。
「そうですね。確かに珍しいかもしれません」
「最初見た時、本物かと思ってビックリしちゃって」
え、本物って何が?
彼女からの予想外の言葉。
「本物って、この帽子がですか?」
「えぇ。すごいリアルなんでつい声をかけちゃいました。あ、降りなきゃ」
電車が中目黒に着くと彼女は会釈して足早に降りて行きました。
その後ろ姿を呆然と見送る僕。
彼女は一体なんだったんだ。なぜこの変哲もない帽子にそこまで興味を示したのだろうか。
それより『本物』って何のこと?去り際に言ってた『すごいリアル』も気になる……
顔を上げると、向かいの席に座っていた高齢男性がずっと僕を見ていました。
「ププ、あいつ逆ナンかと思って調子乗って答えたら違ったでやんの。ダセェ」とでも思われているのかな、なんて考えましたが、どうも様子が違います。
彼も真顔で僕の帽子を凝視しているんですよ。
この帽子そんなに珍しい?それとも『ハロー効果』ってヤツで、僕が身につけると普通のアイテムも特別に見えるのかな?
悩んでるうちに電車は目的地である学芸大学駅に到着。
電車を降り、何かついてるのかと帽子を取って確認すると言葉を失いました。
だって帽子に……
いや、この時の衝撃は言葉で表現しきれません。写真を撮ったので見てください。
帽子になんか大きな虫が止まっていたんです。
写真では虫を帽子から取っていますが、帽子のおでこ中央部分に真上を向いた状態で微動だにせず止まっていました。それこそ、最初からそういうデザインだったかのように。
なんて種類の虫か気になりGoogleレンズで調べると『クワガタムシ(メス)』と表示されました。
おかしいって。
大都会で生活しているのに頭にクワガタが止まるの、絶対におかしいって。
電車で声をかけられた時、紳士的に振る舞っちゃったよ。
頭にクワガタつけたままで。
そりゃ動揺しますよね。
あ、そうか。
彼女の言ってた『初めて見ました』『珍しいですよね』『本物かと思って』『ビックリしちゃって』『すごいリアル』のセリフの数々。
おそらくこのクワガタを本物そっくりなブローチか何かだと思って僕に声をかけたのでしょう。
でも、これがブローチだとしてね。
リアルなクワガタ(メス)のブローチを帽子につけるような不審人物によく声をかけられたな。
おそらく好奇心に勝てなかったのでしょう。気持ちはわかるけど。
「あの女性、勇気あるよなぁ」そう呟きながら帽子からクワガタを取ると元気がありません。
脚にも力が入らず、かなり弱っている様子。
コイツ、帽子に付いて『動かなかった』んじゃなく『動けなかった』のか。
手のひらに乗せると小さな口で僕の手をペロペロと舐めました。その仕草が、まるで助けを求めているようで。
風で飛ばされないよう両手でクワガタを優しく包み、駅近くの公園の木に逃すことにしました。
さっきとは別人(虫)のように元気になったクワガタ。
グイグイと力強く登る姿を見て安心すると同時に、
僕の手汗って樹液と同じ成分なのかな?
なんて疑問が湧いたりもしたんですが、まぁ、クワガタが元気になったので良しということで。
見上げると雲ひとつない青空。
夏と呼んでもおかしくないくらいに暑い、日曜日の昼下がりのお話でした。