「は〜るの小川はサラサラいくよ〜♪」
今日、葛飾でのレッスン帰りの出来事。
荒川土手で撮影スポットを探していたら隣の男性(6〜70代?)が突然歌い出したんですよ。
名曲『春の小川』。
僕もつい口ずさんでしまうのですが、いつもそこから先の歌詞が思い出せません。
「(『フレーズは知っているけど生涯一度もフルで歌ったことない歌』というランキングがあれば、きっと上位だろうなぁ)」
なんて思いながらカメラの構図を決めていると、僕の横で男性は再び歌い出しました。
「は〜るの小川は〜♪…ハイ」
はい?
歌の途中、右手を『どうぞ』のジェスチャーで僕に振ってきたんです。
戸惑いました。試されてるのかと思いました。なにこれドッキリ?
「…サラサラ、いくよ?」
おそるおそる答えると男性は目を細くして言いました。
「そう、正解」
いや『正解』じゃねぇよ。
さっきまで自分が歌ってたからね。
割と大きな声量でこっちはビクッてなったからね。
「冬の荒川を見てると歌いたくなるんだよ」
男性は優しい目で荒川を見つめながら続けます。
いや『冬の荒川』なんて『春の小川』の対義語の最たるものだぞ。
瞬時にツッコミが脳内に湧きましたが、ふと思いました。
僕からすれば冬の荒川は『春の小川』の歌詞から程遠い。でも彼にとってはその歌詞こそが今の心情にピッタリなのだ、と。
同じ時間に同じ景色を見ても、全員が同じ感情を抱くとは限りません。
何を感じるかは個人の感性(もしくはそれを構築するに要した経験)により大きく異なるからです。
例えば、友人5人で同じ夕日を見ていても
「夕日きれいだな」
「帰らなきゃ」
「塾行くの憂鬱」
「晩ゴハンなにかな」
「バナナ」
とそれぞれの感想が違うように。
彼が思い出しているのは故郷か、はたまた過ぎ去りしあの日なのか…
何を回顧しているか僕にはわかりませんが、彼にとって『春の小川』ほど冬の荒川にピッタリの歌はないのです。
そこに理屈や他者の価値基準が介入する余地はありません。
僕は自分の浅はかな価値観を恥じ、こう返しました。
「えぇ、いい歌ですよね。この歌に思い入れがあるんですか?」
「…」
「…」
「……」
「………」
「………」
「…………」
いや広げてよ。色々考えたのに恥ずかしいわ。
ーーーまぁそんなこんなで何も撮影せずに帰ってきたのですが、今日の事件はインパクト大でしたね。
きっと生涯忘れません。
来年から僕も冬の荒川を見て『春の小川』を口ずさむと思います。