朝起きたら窓が数十センチ開いていました。
「…しまった!」
一瞬で目が覚めました。飼ってる猫がベランダから逃げ出したんです。
ベッドから飛び起き、一縷(いちる)の望みをかけて必死に部屋中を探し回りました。
シャワールームやトイレはもちろん、クローゼットから本棚の上、挙句は鍋の中まで探しました。こんな場所にいるはずもないのに。
「外に出たんだ…」
今頃、きっと不安でニャーニャー泣いてるに違いない。
早く見つけてあげなきゃ。
あの子には僕しかいないから。
急いでジャケットを羽織り玄関を開けると、そこに猫が座っていました。
「ニャ〜」
『ただいま〜』と言ってるような間の抜けた鳴き声。
僕を見上げる顔に悪びれた様子は一切ありません。
どれだけ心配したかわかってるのかコイツ。
でも、そのいつもと変わらない姿を見た瞬間に糸が切れたようにヘナヘナとその場に座り込んでしまいました。
「オマエなぁ、心配したんだぞホントに」
猫を抱き上げると、軽くツメをたててしがみついてきました。
普段は抱っこがキライなのに珍しい。
オマケに喉まで鳴らして。
やっぱり不安だったのかな。
ちょうど僕の左胸に猫の頭がきて、ゴロゴロという音が心臓に染み込んでくるようでした。
それがものすごく心地よくて
「なんて幸せなんだ。これを味わいたくて人間の祖先は猫を飼いはじめたに違いない」
となぜか納得してしまいました。
ひなたぼっこしていたのか、身体はポカポカと暖かく日向のにおいがします。
天気の良い日に干したシーツのようなにおい。
それがちょっと可笑しくて、余計に愛しくなって。
で、猫を抱きしめながら思ったんですよ。
逆だったなって。
『この子には僕しかいない』
ではなく
『僕にはこの子しかいない』
んだなって。
世界中に猫はたくさんいるけど、僕が名前をつけて食事をあげたのはこの猫だけなんだ。
僕だけの猫なんだって。
たしか同じ事をサン・テグジュペリが『星の王子様』で書いていたっけ。アレは薔薇だったけど。
この子がいなくなったら僕の世界は終わると思います。
きっと食欲はなくなり夜も眠れなくなるし、笑い方だって忘れるに違いありません。
そうして静かに僕の世界が終わるんです。大げさでもなんでもなく。
「心配したんだからな。もうどこにも行くなよ。好きなだけチュール食べてもいいから。ブラッシングも毎食後にしてやるから。肉球マッサージ付きだぞ。トイレだって3秒以内に片付けてやる。あくび中に口に指を入れるのもやめるし、モフモフ(お腹に顔を埋めるやつ)もやめるよ。
だから。
だから、二度といなくならないで。大河」
ーーー猫の名前を呼んだ瞬間、目が覚めました。
しばらくボーッとした後
「ヤバい、大河が外に逃げたんだ!」
と慌てて窓に目をやると窓は閉まっていました。
寝ぼけた頭で『夢だった』と理解したのはその数分後。
大河は去年の2月7日に永眠したのを思い出しました。
時計を見ると午前6時。3時間しか寝ていません。
再びベッドに横になり目をつむりました。
不思議と眠くない。
左胸に手を当ててみました。
感じるのは自分の心臓の鼓動だけ。
「世界、終わらなかったな…」
そんな言葉が口からこぼれました。
結局、大河がいなくなっても僕の世界は終わりませんでした。
お腹が減ればご飯を食べるし、夜になれば眠くなります。
周囲の人々に恵まれているおかげで毎日笑って暮らしてます。
大河のいない世界は、普段とほとんど何も変わりませんでした。
それがホッとしたような、少し寂しいような。
不思議な気持ちで日々過ごしています。
あ、でも1つだけ変わった事もあるんですよ。
たまになんですが、1年分の『良い夢』を凝縮したような
『とびきり良い夢』
を見るようになりました。
この夢を見ると、睡眠時間が短くても穏やかな気持ちで目が覚めるんですよ。
どんなにイヤなことがあっても、この夢を思い出すだけで誰にでも優しくなれるんですよ。
どんな内容かって?
それはポカポカと暖かく、日向のにおいがする夢。
例えるなら、天気の良い日に干したシーツのようなにおいがする、とても素敵な夢なんです。