不思議な夢を見ました。
ダミ声の関西弁を喋るクロネコの夢です。
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「一日もはやく彼女が退院できますように」
夢の中、僕は神社に参拝していました。
その神社は病院の裏にあって、狭い境内の中に色褪せた鳥居とお社、そして『浄財』と書かれた小さな賽銭箱だけの質素な作りでした。
参道もコケで覆われていたので、詣でる人も滅多にいないのでしょう。
入院中の彼女の回復祈願をしていると、どこからかダミ声の関西弁が聞こえてきました。
「だったら、ちゅ〜る持ってこんかい」
目を開けて周囲を見渡すけど誰も居ません。
気のせいかな、と思っていると再び声が聞こました。
「前や、前」
前を向くと、賽銭箱の上にクロネコがチョコンと座っていました。
真っ黒な毛皮で金色の瞳。長いシッポの先を揺らしながらジッと僕を見つめています。
「猫が喋った……ワケないか」
「ワシやで。願いを叶えたければ小銭なんかより『ちゅ〜る』を持って来こいや」
小さな身体に似合わない、ガラガラの低い声。確かに声の主はこのクロネコのようです。
化け猫かな、と思っているとクロネコはシッポで賽銭箱の縁をぺシンと叩きました。
「誰が化け猫やねん。ワシ神様やねんぞ。オマエが何を考えとるかなんてお見通しやからな」
「神様……ですか?」
状況が飲み込めずに聞き返すと、クロネコは両手を前に揃え、背筋をピンと伸ばし座り直して答えました。
「そうや。この神社の偉〜い神様や」
ふふん、と得意げな顔。
化け猫と間違えるなんて神様に失礼な事をしたな、と反省しました。
「わかればエエねん。で、ちゅ〜るは?」
「持っていません」
「ドアホゥがッ!」
ビリビリと空気が震えるほどの大声。周囲の木々に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立ちました。
「ちゅ〜るは常に持ち歩け!いつどこでワシに会うかわからんやろ!」
そんなのカツアゲじゃないか。
あまりの理不尽さに動揺していると、クロネコは不機嫌そうにシッポを振りながら続けました。
「勘違いすんな。ワシはちゅ〜るが欲しくて怒っとるんやない。オマエのために怒っとるんや。事実、オマエは今ちゅ〜るを持ってないからこんな目におうとんのやで」
明らかにトンデモ理論なのですが、その堂々とした口調に「たしかに神様の言う通りだ」と納得してしまいました。
「願いを叶えたかったら、まず神様を満足させなあかん。そしたら神様サイドも『嬉しかったなぁ。お返しにコイツの願い叶えたるか』てなるんや。明日こそちゅ〜る忘れんなよ」
僕はすみませんでした、と頭を下げて神社を後にしたのです。
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クロネコはワガママでした。
翌日から毎日お見舞い帰りに神社へ寄ると、ちゅ〜るはもちろん、境内やお社の掃除、ブラッシング、さらにはSNSでの拡散まで要求してくる始末。
僕が渋るとクロネコは決まって「彼女さん退院させたいんやろ?ワシを満足させるよう頑張りや」とシッポを揺らしながらニヤニヤ笑うのです。なんて人使いの荒い神様なのでしょう。
あ、でも嬉しいワガママもありました。
境内の掃除を終えて日向で座っていると、クロネコが近づいてきて言ったんですよ。
「ヒザの上、ええか?」
って。
どうぞ、と言うとクロネコはヒザに飛び乗って丸くなりゴロゴロと喉を鳴らしました。
その音色も、やはり鳴き声と同様に低くかすれていて。
でもどこかで聞いたことがあるような懐かしい音で、とても幸せな気持ちになったんです。
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クロネコは色々な事を教えてくれました。
何かを教えてくれる時は、決まって周囲を見渡してから
「ナイショやで」
と招き猫のように左手でコイコイと手招きして耳元で囁くのです。
内容は
・いなばペットフーズ社長の稲葉さんの正体は猫。
・神社のお社はもともと猫を飼っていた場所。
・野良猫で偉そうなヤツはほとんど神様。
・写真家の『岩合光昭』には神様達も一目置いている。
といった真偽の怪しいものばかり。
でも僕は「やはり神様は物知りだなぁ」と感心しました。
その中でも興味深かったのが
『神様の能力は人々の願いに影響受けやすい』
という事。
神様達は最初から特別な力があったのではなく、誰かに強く願われて初めて特別な力を手に入れるらしいのです。
人々が神社で恋愛を願えば『恋愛成就』の神様、勝利や合格を願えば『必勝祈願』の神様、そして誰かへの復讐を願えば『報復祈願』の神様になるのだと。
神様達はとても義理堅いので、大事にされて強く願われると善悪に関係なく願いを叶えようと頑張ってしまうみたいですね。
『神様は満足するとお返しに願いを叶えたくなる』初めてクロネコに会った時に言われたセリフを思い出しました。
「ちなみにワシの関西弁もな、よう参拝に来とったオバチャンのが移ったんや。これ、トップシークレットやで」
あんたエセ関西弁だったのかよ。
能力だけでなく言葉遣いもだなんて。神様は相当影響を受けやすいみたいです。
ということは、大勢の外国人観光客が参拝に訪れる浅草『浅草寺』の神様も外国語ペラペラなのかな。今度聞いてみよう。
「自分で能力を選べないのなら『報復祈願』よりも『健康祈願』の神様になりたいですね」
自分が良かれと思った行動が誰かを傷つけるなんて、あまりにも悲しすぎる。
「な。ワシもそう思うわ」
どこか寂しそうな顔のクロネコ。
だけどその姿は夕陽に照らされ金色に輝いていて、無意識に「キレイだな」と言葉がこぼれました。
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ある日、病院に向かう途中でシロネコに会いました。
ペルシャネコのようにフワフワの長い毛足。瞳は秋空のように明るく澄んだ薄いブルーで、どことなく気品が漂っていました。
僕の脚に何度も頭や身体を擦り付けてくるシロネコ。
しゃがんで頭を撫でると、まるで楽器のようなキレイな音色でノドを鳴らしました。
「神社のクロネコとは正反対だなぁ」そう思った瞬間、シロネコはノドを鳴らすのをやめて僕を見つめて言いました。
「キミ、あいつの知り合いなの?」
猫が喋った!?ていうか僕の心を読んだのか!?
『野良猫で偉そうなヤツはほとんど神様』クロネコの言葉が脳裏をよぎります。
「そう、ボクは神様だよ。ところでキミ、ポケットにちゅ〜る持ってるでしょ。出しなよ」
そしてまたカツアゲかよ。
なんなの?神様はちゅ〜るが絡むとみんな不良高校生みたいになるの?
「すみません。これはクロネコのお供え物なので差し上げられません」
「あれ?あいつ、神通力がほとんど無くなって願いを叶えられなくなってるんでしょ。お供え物しても意味ないよね?」
クロネコに神通力が無い?願いを叶えられない?そんなのウソだ。だって『ワシを満足させたら願いを叶えたる』って約束したんだから。
「失礼ですが、あなたはクロネコの何を知っているんですか」
僕は自分の宝物を傷つけられたようなイヤな気分になり、ついシロネコにつっかかってしまいました。
「色んな事を知ってるよ。だってあいつ有名だもん。村を潰したり、人間達の命を奪ったり。詳しくは本人から聞いてみなよ」
シロネコは毛繕いしながら答えると、スゥっと消えてしまったのです。
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「そうか。シロネコのヤツ、そんなん言うとったんか」
賽銭箱の上に座り、神妙な顔つきで話すクロネコ。
僕はこの話題はしない方が良いと思い、シロネコに会った事を黙っていたのですが、その態度に不審を感じたクロネコは僕の心を読んでしまいました。
「僕は信じてませんからね」
まっすぐクロネコを見つめてハッキリ言いました。
「本当の事や」
「え?」
「神通力がほとんど無いんも、村を潰したんも、ぎょうさんの命を奪ったんも全部本当の事なんや」
このクロネコがそんな事したのか?このヌルくてワガママで、エセ関西弁の神様が?
戸惑う僕にクロネコは優しく笑いかけました。
「安心しい。彼女さんの病気を治すくらいの神通力は残っとるから」
違う。そうじゃない。いや、それも重要だけど、僕はクロネコがそんな事をしたのが信じられないんだ。きっと何かの間違いに決まってる。
「少しだけ、昔話に付き合うてくれるか?」
そう言うとクロネコはポツリポツリと語り出しました。
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江戸時代の中期。
当時この辺りは大きな村で、クロネコの神社も今より大きくて立派でした。
そして毎朝この神社に参拝にくる人間の娘が、クロネコは大好きでした。
娘は戦で親を失った孤児で近所の畑を手伝いながら生計をたてていましたが、お礼でもらえる食べ物はわずかばかり。一度もお腹いっぱいになったことはありません。
顔は泥や土で黒く薄汚れ、手のひらは何度もマメが潰れて硬くなり、いつもボロボロの着物を着ていました。
なのに娘は神社で一度も自分の事を願いませんでした。
「神様のおかげで今日も働く事ができます。本当にありがとうございます。どうかこれからも村のみんなをお守りください」
普通なら『キレイな服が着たい』『美味しいものをお腹いっぱい食べたい』『ラクに暮らしたい』など欲は沢山あるだろうに、願うのは自分のことよりも日々の感謝と村人達の幸せばかり。
クロネコは、この心の優しい娘が大好きでした。
だから機嫌が良い時にはゴロゴロ、と低くかすれた雷鳴を鳴らして村に優しい雨を降らせていたのです。
ある年、村は何ヶ月も雨が降らず大凶作に襲われました。
娘は神社で泣きながら願いました。
「神様、どうか雨を降らせて下さい。村の皆んなをお救い下さい」
クロネコは願いを聞き入れ、雨を降らせて作物をたくさん実らせました。
「奇跡だ!」喜んで神社で祭りを開く村人たち。
あの娘も喜んでくれただろうか。今日くらいはお腹いっぱいに食べられただろうか。それとも相変わらずお腹を空かせながら働いているのだろうか。
クロネコはそんな事を考えながらヤグラの前で踊る村人達の中に娘を探していると、どこからか「お供え物をもってこい」そんな声が聞こえました。
数人の男性達に運ばれてお社の前に置かれる大きな唐櫃(からびつ)。
村長がうやうやしく頭を下げてからフタを外すと、
中にはあの娘の亡骸が入っていました。
綺麗に整えられた髪に化粧された顔。そして生きてる時は決して着れなかったような鮮やかな朱色の着物。
「人身御供の生娘です」
怒りで我を忘れたクロネコは言葉にならない声をあげました。ノドが潰れるほどに。
その声はやがて激しい雷鳴となり、一週間ものあいだ村に大雨を降らせ続けました。
クロネコが正気を取り戻した時には、すでに村は洪水に飲まれて多くの村人達が亡くなっていたのです。
村を潰した罰としてクロネコは最古の神の一人『イザナギ』に神通力のほとんどを奪われ、何百年もの間ボロボロの神社で独りぼっちで過ごすことになったのでした。
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クロネコは話し終えるとお礼を言いました。
「聞いてくれてありがとな。ま、過ぎた事や。オマエはなんも気にせんでええ」
普段と違う素直な態度が余計に僕の胸を締め付けます。
こんな重い過去があったなんて。今後はどう接すれば良いんだろう。
僕の悩みをよそに、次の日からのクロネコはいつもと変わりませんでした。
ちゅ〜る食わせろ、境内を掃除しろ、ブラッシングにSNS、そして最後にもう一度ちゅ〜る。
「こんな美味いのが食えるんや。長生きしとくもんやなぁ」
日向でゴロンと寝そべる姿はただの猫にしか見えません。あの昔話からは想像もつかないダメっぷりです。
「今は満足してますか?」
「あぁ。最高や」
クロネコは僕に顔を向け、目を細めて答えました。
「神様は約束を必ず守るんやで」
ウトウトと寝言のように呟くクロネコ。
『満足したら願いを叶える』と約束したけど、願いを叶えた後のクロネコはどうなるのだろう。
今まで通り変わらないのか、それとも僕の前から消えてしまうのか。
出来ることなら、彼女が退院した後もずっとクロネコと一緒に居たいな。
スヤスヤと寝息をたてるクロネコを見ながら、そう思いました。
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ある日の夕方、彼女の容態が急激に悪化して緊急手術をする事になりました。
「手術が成功しますように」手術室の入り口で赤く点灯するランプを見ながら必死で祈り続けていると、無意識に言葉が出たんです。
「クロネコ、助けて」
と。
そうだ。クロネコだ!
僕は急いで病院裏の神社に向かいました。
鳥居をくぐると、クロネコは賽銭箱の上に礼儀正しく座っていました。
「はぁ、はぁ、はぁっ!か、かの、彼女たす、たすけ……」
息が切れてうまく言葉が出ません。
「言いたい事はわかっとる」
「じゃあ!」
「ただし最後の契約が必要や。一人の人間の命を左右する願いは、それなりの供物がいるんや」
「なんだって差し上げます!全財産でも、人生でも、この命だって!」
「アホが!」
全身の毛を逆立て、牙を剥いて怒るクロネコ。
「誰がオマエの命なんぞ欲しがるか!そんなんもろても嬉しくないわ!ほんま人間は命を軽く扱いすぎなんや」
なんだよこんな時に。どうすればクロネコは願いの契約をしてくれるんだ。
神様が満足するもの。
新しい鳥居か?それとも賽銭?祠?いいや、どれも違う。きっとクロネコはそんなの喜ばない。
……クロネコ?そうか!
「ちゅ〜る、でどうでしょうか」
「オモロいこと言うやん。でもちゅ〜る一本で人の命が救える思うとるんか。アマアマやな」
「毎日です」
「毎日?」
「はい。僕が生きている限り、毎日ちゅ〜るをお供えさせていただきます。おそらく五十年は固いでしょうね」
「ご、五十年分のちゅ〜るやと!?本気か!?」
耳をピンッと立てて目を丸くするクロネコ。身体はワナワナと小刻みに震えています。
「もちろん!」
「よっしゃ!その約束、忘れるなよ!」
クロネコは賽銭箱の上で宙返りするとドロンと消えてしまいました。
その後すぐにゴロゴロと低くかすれた雷鳴が鳴り、小雨が降り出したのです。
雨の中、僕は彼女が助かったことを確信しました。
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彼女の手術は無事成功しました。
翌日には容態はすっかり回復して健康そのもの。
「奇跡だ!」大騒ぎするドクター達。
この奇跡の正体を知っているのは僕だけでした。ちゅ〜る五十年分と聞いた時のクロネコの顔、目が爛々として可愛かったな。
「どうしたの?ニヤニヤしちゃって」
僕の顔を覗き込む彼女。肌もすっかり血色が良くなり、入院する前より健康そうです。
「キミが無事で良かったよ。お礼をしなきゃなって思ってたんだ」
「お礼?ドクターに?」
「いいや。僕とキミの恩人に」
「誰なの?」
「全身真っ黒で大きな耳と目、そして立派なヒゲを生やした神様、かな」
「なにそれ。まるで黒猫ね」
窓から差し込む温かい光の中、ベットの上でケラケラと笑う彼女。
それに呼応するかのように温かい風がカーテンを優しく揺らしました。
本当に良かった。クロネコは願いを叶えてくれたんだ。
あとで手術成功の報告がてら、両手いっぱいのちゅ〜るを持って神社に行こう。きっと飛び上がって喜ぶに違いない。
僕は呑気にそんな事を考えていました。
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病院からの帰り、神社に行くと違和感を感じました。
境内にクロネコがいないのです。
いつもなら鳥居をくぐった瞬間「遅かったやないかい」とノソノソ歩いてくるのに。
どこかに隠れているのかと探すと、賽銭箱の裏でクロネコが倒れていました。
「ちょっ!大丈夫ですかっ!?」
抱き上げると驚くほど軽く、身体もうっすら透けているように見えます。
「オマエか……彼女さんはどうした」
ボソボソと呟くクロネコ。声に力が無い。目の焦点も合っていません。
「彼女は助かりました!それよりどうしたんですか!?」
「良かったな。ワシ、神通力を使い果たしたわ」
「使い果たすとどうなるんですか!」
「お別れ、や。しゃーない」
「冗談やめてくださいよ!お腹が空いてるだけでしょ?!そうだ、ちゅ〜る!たくさん、たくさん持ってきたんですよ!」
急いでちゅ〜るを食べさせようとしたけど、クロネコを抱いたままなのでうまく袋が開けられません。
どんどん身体が透けていくクロネコ。
焦るほど手が滑り、何度もちゅ〜るを地面に落としました。
どうしよう。早くしなきゃクロネコが消えてしまう。
手が震えて指先に力が入りません。涙が滲んで視界がボヤける。袋の『開け口』が見つからない。
「死んじゃう!クロネコが死んじゃう!いやだ!やだよ!」
気がつくと、僕はクロネコを抱きしめて大声で叫んでいました。
「なんで僕のためにここまでしてくれるんですか!」
「あぁ、ナイショやで」
力なく左手でコイコイと手招きするクロネコ。
「オマエ、あの娘の生まれ変わりなんや」
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クロネコはゆっくりと話してくれました。
「ワシ、もう一度だけどうしてもオマエに会いたくてな。会って色んな話したくて。そんで今度こそ幸せにしたくて。あの時、イザナギ様にお願いしたってん。『どうかもう一度だけ、あの娘の願いを叶えさせてください』て。したら少しだけ、神通力を残してくれたんや」
「ずっとずっとオマエを待ってたんやで。せやから生まれ変わって容姿も性別も変わっとったけど一目でわかったわ。ビシッとエエ服着て、栄養のあるモン腹いっぱい食うてそうで。見た時はホンマ嬉しかったわ」
「もっと一緒に遊んでいたくて、ついワガママ言うて付き合わせてしもうた。すまんな」
「めっちゃ楽しかったわ」
「めっちゃ笑ったし」
「ごっつ幸せやねん、今」
「ワシ、もう満足や」
「ありがとうな」
どんどん呼吸が浅くなり、途切れ途切れに喋るクロネコ。僕の大粒の涙がボタボタとその顔に落ちました。
「なんや、雨かい」
もう目が見えていないのか。
喉の奥が詰まって言葉が出ない。顔を横に振ることしかできません。
その度に涙がこぼれてクロネコの毛皮を濡らしました。
「また……会えますよね」
やっと絞り出した一言。
本当は伝えたい事が沢山あったのに、今はこれが精一杯。
「……あぁ。すぐ会えるわ」
クロネコは少しだけ笑って、僕の腕からスゥと消えてしまいました。
クロネコのいなくなった神社は静かでした。
耳が痛くなるほど、静かでした。
ダメだ。我慢できない。
そう思った瞬間、涙が溢れだしました。
クロネコ、クロネコ。しゃくり上げながら何度も名前を呼びました。
両手で顔を覆ったけど涙と声は止まりません。
いつの間にか空は薄暗くなり、針ように細い雨が降り出していました。
それでも僕は子供のように泣き続けていたのです。
誰もいない境内で、ずっと。
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翌日、神社に行くのが憂鬱でした。
クロネコが居なくなったことを再認識するのが怖かったからです。
だけども『ちゅ〜るを毎日お供えする』と約束したので行かなければなりません。
この約束だけが、僕とクロネコを結びつけてくれる『絆』のような気がしたのです。
鳥居をくぐると、お社の裏から小さな何かがこちらに歩いてきました。
よく見ると
子猫
でした。
ホワホワの茶色い毛皮と大きな金色の瞳。手のひらに乗るくらいの、小さな茶トラの子猫。
トテトテと歩いてきて、しばらく僕を見つめてから口を開きました。
「遅かったやないかい」
クロネコ!?
なんで?神通力を使い果たして消えたんじゃないの?ていうか茶トラ?え?なんで子猫?可愛い。
パニックになっていると、僕の心を読んだクロネコ(今は茶トラの子猫だけど)は得意げな顔で続けました。
「すぐ会える、そう約束したやろ」
いや早すぎだろ。
「でも神通力を使い果たして願いは叶えられないんじゃ……」
「ほんのチョビっとだけ神通力が残っとってな。それで生まれ変われたんやけど、やっぱり神通力が足りひんくて子猫が限界やったわ」
「なぜ茶トラなんですか?」
「黒や白みたいな一色の毛皮になるんは神通力がむっちゃ必要やねん」
なるほど。そういえば病院の途中で会った神様も白猫でした。
「しかもコレ、見てみぃ」
シッポを僕に見せようとしてコロンと転ぶクロネコ。
お尻にはお団子のような丸いシッポがチョコンと着いていました。
「あぁもう、バランスが取れん!シッポも短うなってもうたんや!」
プリプリと不機嫌そうに揺れるシッポ。
それを見たら急に安心して、声を出して笑ってしまいました。
クロネコは起き上がって小さな舌で毛繕いをしながら言いました。
「まぁええ。でもコレで本当に神通力はカラッポ。しばらくは神様の仕事も休業やな」
「え?この神社はどうなるんですか?」
「ワシの神通力が戻るまでシロネコが担当する」
神様って業務引き継ぎとか可能なんだ。なんかサラリーマンみたいだなと思いました。
「じゃあ、それまで僕の家で一緒に暮らしましょうよ」
「それは願いか?もし願いを叶えたいなら……」
あぁ、懐かしい。クロネコと初めて会った時もそんな事を言われたっけ。
「ちゅ〜る、ありますよ。五十年分」
短い首をニュッと伸ばし、目の色を変えるクロネコ。
「よっしゃ。その願い、叶えたるわ!」
そう言うと僕のズボンに爪をかけてよじ登り、パーカーのポケットに潜り込んで丸くなりました。
「あ、ワシの寝床は部屋の高いところにして、毎日ちゃんと拝むんやで」
「なんか神棚みたいですね」
「そうやで。神棚はもともと猫の寝床やったからな」
「へぇ。やはり神様は物知りですね」
「ワシはなんでも知っとるぞ。あとモンプチのクリスピーキッスはめちゃくちゃ美味い。猫のオヤツに最適や。覚えとくんやで」
それはただのリクエストだろ。
家に向かう間、クロネコはパーカーの中でずっとゴロゴロと喉を鳴らしていました。
小さな身体に似合わない、低くかすれた音。
でも、どこかで聞いたことがあるような懐かしい音で、とても幸せな気持ちになったんです。
僕はポケットのクロネコを大事に抱えながら、少しだけ早足で歩きました。
~おしまい~