今日、帰宅途中の電車内で猛烈な睡魔に襲われたんです。
車内のエアコン、心地よい振動、レッスン後の疲労感…
「(あぁ、これはきっと今年のベスト・スリーピング大賞だわ)」
朦朧とする意識の中でそんな事を考えながら眠りに落ちました。
「「次は三軒茶屋。三軒茶屋ー」」
車内アナウンスに目を覚ますと、右手に何かを握っていました。
小さくて、柔らかくて、暖かい感触。
寝ぼけながら手元を見ると、それは小さな左手。子供の手を握っていました。
子供が僕に寄りかかって寝ていたんです。
「なんだ。手か…」
何気なくその手を離そうとしたら、グッと握ってきました。まるで手を離されるのを拒否しているかのようでした。
その瞬間
「あぁ。何があってもこの子だけは守らなきゃ」
と、ある種の使命感を感じて胸が苦しくなりました。
そして兄の言葉を思い出したんです。
ーーー15年ほど前、兄家族が実家に泊まりに来た時の事。甥っ子(3歳)の寝顔を見ながら兄と交わした会話です(あの時の会話は不覚にも『兄ちゃんカッコいいな』と思ってしまったので今でも鮮明に覚えています)
ハードワークを不満も弱音も吐かずにバリバリとこなす兄が、どうやってモチベーションを保っているのか不思議で
「やっぱり子供がいると仕事にやりがいとか出るの?」
と質問したんです。
「仕事のやりがい…っていうか、子供のおかげで『生きがい』が出たな」
兄は照れ臭そうに答えました。
「なにそれ」
「オレが仕事から帰るといつも寝てるんだよ、コイツ」
子供のほっぺたをつつきながら、兄は優しく話します。
「遊べなくて残念?」
「まぁ残念だね。それである日、コイツの手に指を置いたらギュって握ってきたんだ」
「へー」
「寝てるはずなのに結構強い力でさ。その瞬間に運命を感じたんだ」
「あ。『この子は俺に会うために生まれてきたんだ』ってヤツ?」
「いや、逆。俺がコイツに会うために生まれてきたんだって。受験も、バイトも、就職も、営業も、今まで人生で大変な事が沢山あったけど、それを頑張ってきたのはコイツに会うためだったんだろうなって」
「…いい話じゃん」
「だろ。だから万里も、まだ見ぬ人のために今を一生懸命に生きろよ。全てはその人に繋がっているんだから。そう思えばどんな大変な事も乗り越えられるから」
「わかったよ」
あの日『わかった』と答えましたが、実際のところ当時の僕には兄の言ってる事にピンときていませんでしたーーー
そして今日、兄の気持ちが解ったんです。
この子に手を握られて
「この子を守ろう。僕はそのために生まれてきたんだ」
そう感じました。
それは『頑張る』とかのレベルじゃなく決意に近いモノで、兄があの時に言いたかった『生きがい』ってこのことだろうな、と思いました。
「「次は渋谷。渋谷ー」」
車内アナウンスを聞いて、僕は大きな問題に気が付きました。
いつも渋谷で降りて歩いて帰宅してるんですが、何が問題って
この子、全然知らない子
なんですよね。
この子の右側で寝ている男性が明らかに父親なんですよ。
だって子供のバッグ抱えてるし。
この子、父親と間違えて僕の手を握っているんです。
そんでこの子、手を離してくれないの。
僕、渋谷で降りなきゃいけないのに降りられないんですよ。
いやね、無理に離すことも出来ます。でもこの子が起きたら可愛そうじゃないですか。
ていうか万が一、寝起きで僕の顔見て泣かれたら僕が周囲から不審者扱いされるのは確実じゃないですか。
『この子を守る』どころか僕の名誉すら守れるかの瀬戸際じゃないですか。
「(力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、力が緩んだら離そう、)」
心の中でジュゲムジュゲムくらい唱えていると表参道駅の手前で子供が手を離したので、親子を起こさないように静かに降りて電車を見送りました。
「僕の仕事が巡り巡って、いつかあの子の笑顔の0.0000000001%にでもなると良いな」
そう考えると、これから僕を待ち受けるハードスケジュールも、膨大なパソコン作業も不思議と乗り越えられる気がしました。
表参道の改札を出て地上に上がると夜風は生ぬるく、すっかり秋の気配。右手にはまだ温もりが残っています。
「やっぱり今年のベスト・スリーピング大賞だったな」
すっかり高くなった月を見上げながら呟いて、自宅へ急ぐのでした。